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2017年 09月 01日 *
今季の覇権は「ひなろじ」なんだよなぁ…
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2017年 08月 25日 *
先日うっかりイヤーピースをシャツのポケットに入れたままクリーニングに出してしまった。
最初はイヤーピースをどこかに落としたかと思って部屋を探したりしたが、どこにも見つからなかったのでシャツのポケットしか考えられなかった。
シャツが戻ってきたら無事にイヤーピースは見つかったが、その間、他の機種のイヤーピースを代わりにはめて使っていた。

外出先で自分はよくイヤホンをしている。
というかこれがないと不安で外に出たくない位には重宝している。
昔書いたけど、外で不意に大きな音がするのが苦手だ。
実際音楽は聞いていないので主に耳栓代わりの目的で使用している。
音楽は聞いてもいいんだけど、駅の発車メロディが曲を邪魔してきたりするのが嫌で気が向いた時にしか曲は聞いていない。
頻度としては月に数回程度。

機種は特に拘りがある訳ではなく、最低限の音質が確保できればそれでいいと思っている。
色々な雑音が入ってくる屋外で使用するためのイヤホンに音質を求めても…。
使用しているのはMONSTER MH TRON IE BX で、値段の割に音は良い。
当時、UE100のコスパが優れていると話題になっていたけど、コスパの面ではこちらの方が断然優れていると思う。
だがMH TRON IE BXは既に生産中止しており入手手段がない。
これに代わる後継機種として挙げられるのが同メーカーのMH HJ WIKD IEである。
音質はMH TRON IE BXとほぼ同等でありながら、現在2500円前後で入手可能。
はっきり言って個人的にはこれを20個くらい確保しておけば死ぬまでイヤホンには困らないのではないかと思う。
MH TRON IE BXの時はメーカー保証期間がなんと3年間もあり、途中で断線したとしても交換対応してくれた。
イヤホンは所詮消耗品であり、イヤーピースを紛失したり片方聞こえなくなったりすることは十分考えられる。
MH HJ WIKD IEの保証期間は一般的な1年間で、まあそれでも良心的な方だが、断線したら交換するつもりで1個しか購入しない選択肢もある。
だが、同モデルがいつ市場から消えるか分からないことを考えると、在庫処分のタイミングで複数確保しておいた方がいい。
問題はデザインが万民受けしないくらいか。
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2017年 08月 23日 *
安めの大衆食堂に場違いな老夫婦が席に座っていた。
案の定、口を開けば文句ばかり。
そこまで嫌ならわざわざ来なければいいのに、と思った。
きっと旅行先では旅館の対応に文句を言い、どんな景色を見たって昔見たものと比較してケチを付けるのだろう。
年を取るというのは、そういうことなのだろうか。
いや違う。
自分も大切なものに出会わなければ、同じように何をしたって文句を言う大人になっていた。
大切なものがあれば、ある程度の苦労なんてどうでもよくなってしまう。

ある人にとって大切なものは、他の人にとって大切とは限らない。
物がどれだけフィットするかは捉える人によって違う。
大切なものに出会えるかどうかは、その人に努力が足りないなんてことではなく、結局のところ運次第なのかもしれない。
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2017年 08月 19日 *
最近、昔の写真を見るのにはまっている。
写真をわざわざ無償でブログにアップしている人達がいるのは、本当にありがたい。

自分も昔の写真を持ってたらいいなと思ったものの、10年ちょっと前の写真しか持っていない。
それだとあまり今と変わってないから、あまり比較にならない気がする。

スカイツリーが建つ前の業平橋駅からの眺め
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確かに土地が余っているように見えるかもしれないけど、場所柄、特に魅力のある場所でもなかったように思う。
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2017年 08月 15日 *
音は鼓膜を震わせ神経細胞から情報が脳に伝わり、最終的に音として認識する。
仮に耳というインターフェースが無かったとしても、信号さえ脳に届けば音として認識される。
視覚に障害があったとしても、信号さえ脳に届けば映像として認識される。

無音なのに音を認識することは可能である。
物が無いのに物を見ることは可能である。
手足を自由に動かせるように、周囲のストレスだけで体に変調が及ぶように、形がなくとも認識が体に影響を与えるのは珍しいことではない。

記憶は一体どこから来るのか。
例えば本を読み、自分なりに咀嚼し理解を深め、実践できるようになるまでいくつかの過程を踏まなければならないが、最終的な段階を「定着後の記憶」と呼ぶことにする。
それが脳の中ではただの情報で、他人とやり取りできるものであるなら、その定着後の記憶は「誰のものか」ということが曖昧になってくる。

例えば同じ映画であっても、それを見た記憶は人それぞれ違う。
定着後の記憶が外からやって来るのか、それとも自分で作り出したものなのか、ひとまず置いておくとして、それを感じたのは自分自身か? と言われると、少し違う。

将来、定着後の記憶を人と交換することが可能になり、それがビジネスになる日が訪れたとしよう。
海外旅行の記憶を買えば、わざわざ休みを取って海外旅行に行く必要はなくなる。
一瞬で海外旅行に行った記憶が手に入るのだから。
しかしここで、一体誰が海外旅行に行った記憶かが問題になってくる。

わざわざ映画館に行ってお金を払わなくても、2時間消費しなくても、記憶を買えばそれで済む。
しかし誰が見た記憶かによって印象が180度変わるということが起こり得る。

こうなると、映画の完成度というより、その記憶の値段・価値は、誰が映画を見たかによって変わってくる。

それまで能力やスキルに価値が与えられてきた。
だが、感性というものにも新たに価値が加わるようになる。
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2017年 07月 20日 *
確かドラえもんの道具に歌手とか学者などの記憶のカートリッジを装着する話があった。
SF映画トータル・リコールにも外部から記憶を注入する描写がある。
だがこれらのよくある話とは違い、入ってくる記憶はこちらでコントロール出来ない。
まあ現実世界でも思い通りに出来ることはもともと少ないが。
とにかくそれは、こちらが望もうが望むまいが、基本的に向こうからやって来る。
そこには、世界がそこにあるという実感というか、世界観が含まれている。

かつては東京や郊外にだって、世界観というか活気というか、そういうものを感じることが出来ていた。
これは僕の個人的な問題かもしれない。
だが、そこにあったものがマンションや駐車場やコンビニに置き換わることで、確実に世界観は損なわれてしまう。
どこに行っても同じ景色なら、どこに行ったって同じなのだから。
一方、異世界には最近自分が現実世界で感じ取れなかった世界観を確かに感じ取ることが出来る。

昔、日本には城が存在した。
天守閣から街の様子を一望することが出来た。

今この世界のリアルとは何なのだろう。
ニュースで取り上げられる殺人事件や戦争や交通事故のことだろうか。
負のニュースだけでなく、逆に、多くの人を幸せにするような出来事もあったのかもしれない。
少なくとも10年~20年前くらいまでは世界の存在を自覚出来ていた気がするが、今ではそうした感覚は希薄になってしまった。
この世界で起こっていることがよくわからない。
時代が変わってしまったのか、自分が変わってしまったのか。
遠くに行けばわかるのだろうか。
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2017年 07月 19日 *
ネットが普及するようになって、多くの人がつぶやくようになり、きっと誰かが同じことを書いたりしてるんだろうなという気持ちが自分の書く行為を思いとどまらせている。
自分の興味の対象にしたって、同じ興味を持つ人が既に書いているのだ。

記憶のことはどうだろう。
0.1%くらいの人が同じことを思っているかもしれない。
だとすると日本に10万人くらいは存在することになる。
結構沢山いるね。

記憶が入ってくるという感覚。
今まで出来なかったことが出来るようになることは日常生活において割とよくあることだ。
その過程の中では試行錯誤の段階があって、慣れてくると意識せずとも自然と身体が動くようになる。
知識についても同じことが言える。
最初はただ暗記していたものが、やがて生きた知識として活用できるようになっていく。

ただ何にせよ、そうなるまでにはそれなりの時間がかかる。
当たり前の事だ。

なので、次の道を曲がってそうしたら通りに出るから2番目の交差点を右に曲がればあの場所に出て…
みたいな記憶が一瞬で入って来たりしたら、少なくとも自分は戸惑う。
一体その記憶はどこから来たのかと。

異世界みたいなものが本当にあるのではないかと考えることもある。
何かをきっかけに向こうの世界とリンクし覗き見ているのではないだろうか。
また、この世界には秘密みたいなものが存在し、死んだあとで「何だ、そういうことだったのか」と理解する日が来るかもしれないと。
そんな風に思うこともある。

世界を認識すればその世界は存在する。
普通に考えれば逆で、世界があるから僕たちは世界を認識するに至る。
物理法則が存在するから僕たちはそれを認識する。
しかしそれよりもっと上位の概念が存在するのかもしれない。

無制限のストレージサービスのほとんどが撤退していることからもわかるように、記憶媒体は有限である。
にもかかわらず、何年もかけて習得するような記憶や知識が一瞬で入ってくることなど起こり得るのだろうか。
もしあるとすると、どのような仕組みで実現できているのだろうか。

記憶装置が高価な時代、FM音源のようにメモリが小さくてもパラメータを変えることで様々な音色を奏でる技術が存在した。
既にある記憶が脳の中でパラメータを変えることにより別の意味に変化する。
それは例えばパラメータを一つ変えるだけで、アニメのDVDが全く別の映画のDVDになるようなもので、本来ならあり得ないことだ。
万華鏡のように回せば異なる絵柄が出るというだけなら可能だが、チンパンジーがシェイクスピアの戯曲を書けるかとなると話は変わってくる。
そんなことが実現できるならば、これまで信じていた記憶媒体の有限性は全く否定されることになる。

この現象は一体何なのだろう。
ネットがこれだけ普及したのだから、同じようなことを考えている人がどこかにきっといるはずだ。
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2017年 06月 04日 *
3期キター
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2017年 05月 16日 *
たまにはバイク乗りっぽいことをしてみようと思い、とある道の駅に行ってみた。

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そこはライダー達の間ではそこそこ有名な所らしく、平日昼間だというのにバイクが沢山停まっていた。
なにこれ、ちょっと間に入りづらい雰囲気…。
自分が考え過ぎなだけかもしれないが、スクーターで来なくて本当によかった。
もし50ccの原付だったら嘲笑の的にされていたかもしれないし、かといって大型バイクで来たらじろじろ見られるだろうし。

外見を気にするといっても気にするポイントは人それぞれだ。
自分はフルカウルというだけで「何がんばっちゃってるの」と思われそうで買うのを躊躇ってしまう。
それと自分が主に走るのは誰も走っていない道で、そういう未舗装道路をフルカウルで走るのはどうなんだろうと。
今になって思うと、そうした道は、原付の方が気が楽だ。
足つきはいいし軽いので転倒の危険を抑えることができる。
車体が小さいので変な威圧感もないし周囲の環境に溶け込みやすい。
林道はそこまでスピードは出せないので原付でも不満を感じない、というか小回りが効く分、かえって走りやすいとさえ思う。
ただ目的地までの移動はやっぱりバイクの方が楽なんだよなぁ。

でも楽なのと楽しいは別だと思う。
なぜバイクや自転車が楽しいのか。
それは、車のように必ずしも周りの流れに合わせる必要がないからではないだろうか。
下道の車の流れに乗るという目的なら250ccあれば十分、いやジクサーでも十分だ。
しかし常に70Km/h前後で流れている道路を周囲に合わせて走ったところで、何ていうか走らされている感じがする。
ただ白線の枠に従ってハンドルとアクセルを調節しているだけで、乗り物を操っている感覚がないというか。
ジクサーは実用性からすれば文句の付けようがない。
原付での不満だった点はほぼ解消されている。
でも原付は原付で良かった所があったな、なんてことを考えてしまう。
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2017年 05月 15日 *
電車は便利だ。
ぼーっとしているだけで目的地に着く。
車やバイクを運転するよりよっぽど楽だし速い。
でも厄介なのが乗り換えや乗り越しがあることだ。

最近千葉駅の構内が新しくなった。
天井から吊り下げられている案内標識も液晶になった。
以前はLEDだった。
もっと昔はパタパタと切り替わるやつ(反転フラップ式)だった。
一番困ったのは総武快速(横須賀)線で東京方面に向かう列車なのか下り方面に向かう列車なのかわからなかったことだ。
今でこそ(東京方面)と追記されるようになったが、当時はそのようなやさしさは無かった。
久里浜とだけ表示されても、最初は千葉の海に行く列車だと勘違いしていた。
実際は神奈川方面の海に向かう列車なのだった。
(更に言えば勤労千葉で定期的にストが実施され列車が止められることがあった。
自分達のことを勤労と言い切る割には、賃上げ交渉のために仕事を放り出すあたり、何か矛盾を感じなくもないが…)
総武快速は3番~10番までのどのホームも発着に使うという、実にフリーダムな動きをするのも問題をややこしくしている原因の一つである。

悲しいことに自分はよく降りなければならない駅をそのまま乗り過ごしてしまう。
寝ている訳でもなく、気づいたら知らない駅まで来ている自分がいる。

最近知ったのだが、京葉線の各駅停車の海浜幕張行きは、終点の海浜幕張駅から蘇我方面に行く場合、わざわざ階段を降りて別のホームに向かう必要がある。
間違えて降りたホームの正面に来た東京方面の電車に乗ってしまった時の悲しさといったら。
本当に自分の無力さが情けなくなる。

それと前から疑問に思っていたことがある。
Suicaに入金することをチャージすると言うが、そもそもこれは英語として正しいのだろうか。
更に乗客が「大丈夫? チャージある?」と言っているのをよく耳にする。
話の前後関係から察するに、Suicaの残高はあるか? と相手に尋ねているらしい。
百歩譲って「入金する」ことを「チャージする」ことと認めたとしよう。
だとしても、「残高」のことを「チャージ」というのは生理的に受け入れられない。
基本的に人の言っていることがよくわからない。
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The Original by Sun&Moon