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2010年 09月 24日 *
無気力のことを書くのは難しい。
無気力な状態だと書く気力もないからだ。
おいしいものが食べたいと思った。
その欲求を感じるには、まず過去においしいと思った経験を思い出さなければならない。
でも結局思い出など、どうにでもなる。
自分が過去に縛られているのではなく、縛っているのは自分なのだから。
自分がおいしいと感じるかどうか。
食べ物はその感覚を喚起させるための媒介でしかない。
おいしい感覚を生みだせるのは、何もおいしい食べ物だけではない。

人が欲求を満たすために行動している、あるいはDNAによってそうプログラムされているなら、麻薬に溺れる人を否定できないのではないか。
アヘン窟の中で微動だにしない人間は死んでいるようにしか見えないが、本人は内側の世界ですっかり満足感に浸っている。
外側の世界で満たされないとしても、内側の世界で真に満ち足りている。
その満足感が食欲や睡眠欲や性欲などが小さく霞んでしまう程大きなものなら、それを求めるのはごく自然な行動だ。

おいしいものが食べたいと思っても、その次の瞬間にはどうでもよくなってしまう。
おいしいものを食べたからといっておいしいと感じるのは自分。おいしいと決めるのは自分。
数年前とは状況が違う。
今は経済的に食べるのには困らないから、逆にどうでもよくなる。
数年前、無職で一人暮らしをして、お金が底を尽きたら死のうと考えていた。
今から考えると無謀なことをしたと思う。
だけど1日1日必死だった。
一人で得体の知れない何かと戦って、食べ物を食べ、明日を生き延びられるのを実感できて嬉しかった。
決して自慢できる生活ではないが、誰とも会わず、シンプルで、ある意味筋が通っていた。

今はなぜ自分が毎日仕事をしているのかよくわからない。
僕は何も望んではいないのに。
何も欲しくない。
明日死んでも構わない。

なぜ書くのかわからないが、今日感じていることは今日しか書けない気がする。
今日感じたことを明日書け、と言われても書けない。
今日よりも明日の方が理路整然とした文章を書けるかもしれないが、きっと何かが足りなくなる。
他人にとって意味不明で無価値であっても、僕はその「何か」を書きたい。
かつてのFXブログの記事だって、今書けと言われても書けない。
あの時は仕事もせず時間があったし、FXしかしていなかった。だから書けた。
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2010年 09月 18日 *
最近の関心事は、休日どのように時間を潰すかということだ。
休日何もすることがない。
会社の人に聞くと、だいたいの人は趣味に時間を使い、趣味がなくてもパチンコに行ったりして時間を潰している。
どのように時間を潰すか。
いつからかそう考えるようになり、物事に対する見方が少し変わった。

よくCDのレビューに「心に残るフレーズがなかった」と低い評価が与えられるのを見かける。
だが、心に残らないフレーズならずっと聞いていたい。
30分のテレビドラマも何も事件が起こらないものを見たい。
ずーっとぼーっと、感情移入することなく、静かに時間が過ぎていけばいい。
なのに、その期待は裏切られる。
作品は、安定→不安定を繰り返すからだ。
ずっと安定状態なら、飽きることがないのに。
予想できなかったものを目にする時、不安定になる。
知らない方がよかったことが沢山ある。
知らなくていいことを知ってしまった時、それ以降、新たに耳を傾けなければならない声が一つ増える。
そうやって絡まった声に縛られると何もできなくなる。
何を見ても疲れてしまう。
表面的にはこの世界は素晴らしい。
それを素晴らしいと思えなくなった時から苦痛がはじまる。

現代の流行りでいう「癒し」の究極の形態は「死」なのではないかと思う。
一方、成功者と呼ばれる人たちも、案外欲しいものを手に入れてはいないのかもしれない。
成功は誰かの妬みを生み、自分の存在を危うくする。
いずれにせよ、生きたまま安定を求めること自体、矛盾しているのだ。
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2010年 09月 17日 *
同じように何もしない1日が過ぎる。
気力が起きないのは体が休息を求めているのかもしれない。
でも考えてみれば、10年以上こんな感じだ。
疲れることなど何もしていないのに。
ブログも止めた方がいいんじゃないか。
ずっと口をつぐんでいたい。
どんな言葉も空虚に思えてしまう。

僕があの人のことを好きなのかどうかはわからない。
好きという感情は忘れてしまった。
思い出したい気持ちにもならない。
ただしたいことがあるとすれば、もう一度あの人の笑顔が見たい。
それだけで十分。

音楽を聴くことや、映画を見ること。
それらに時間を費やしてきたけど、もう疲れてしまった。
なんであんなに疲れるのだろう。
だから何も見ない。テレビも音楽もゲームも。
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2010年 09月 13日 *
どうして伝わらないんだろう。
もともとそういうものなのかな。
それとも、伝え方を知らないだけなのかな。
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2010年 09月 12日 *
目が覚めた。
カーテンは閉め切っていたが、日の光が入り込んでいた。
今何時だろう?
よく部屋の壁に飾ってあるような時計は置いていない。
自分の携帯がどこに行ったのか探すのが面倒で、今の時刻を知ることをとりあえず諦める。
僕はどこに住んでいるんだっけ?
そんな根本的な疑問が浮かぶ。
あそことか、あそことか…。周りの風景を思い浮かべる。
この部屋からだと歩いて駅まで15分はかかるな。
でも、駅って何駅だったっけ?
思い出せない。
歩いて15分くらい離れた部屋に住んでいるということは、具体的な駅名があるはずだ。
部屋の周りの田舎の風景は思い出せるのに、部屋の建物全体のことや、駅名を思い出せない。
自分の名前はもちろん、自分がiPodを所有していることは憶えているのに、肝心のここがどこなのかわからない。
そうだ、外に出てみよう。
僕は玄関まで行き、ドアノブに手をかける。
ロックを外し扉を開けた。

目の前にあるはずの風景がそこにはなかった。
それと同時に失われていた記憶が蘇ってきた。
僕が住んでいたのは、田舎町ではなく、思いっきり都会だった。
さっき想像していた部屋の周りの風景は全部思い違いだった。
僕は田舎などに住んでいなかった。

朝目が覚めた瞬間、自分が何者かわからなくなることはありますか?
僕はよくなります。
短期間とはいえ、ある一部の記憶が欠落した状態になる。
いや欠落だけでなく、自分の想像の世界をあたかも現実であるかのように錯覚している場合がある。
それをどのように見破るかといえば、記憶の具体性を考えてみればいい。
さっきの例でいうと、自分の住んでいるところの駅名がわからなければ、その記憶は怪しい。
その駅は現実には存在しない可能性がある。
現実には存在しないなら、それは想像上の産物ということ。
この想像上の産物は、実は日頃接している映画やゲームの世界に似ている。
受け手が文章の隙間を想像することにより、それが虚構から現実世界へと近づき、境界があいまいになる。
例えば田舎が舞台の作品があったとして、それが日本地図上のどこなのかまで詮索する人はいない。
受け手は物語の世界が田舎町であるという設定を無意識のうちに受け入れてしまう。
人間にそういう性質があるからこそ、作中で具体的な場所を語らなくても、それで作品は成り立つ。
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2010年 09月 12日 *
この作品はWikipediaの「泣きゲー」のページにエントリーされていると思いきや、何者かの手によって削除され、しばらくすると復活していて、でもまたしばらくすると誰かの手によって消されている不思議な作品である。
僕もなぜこの作品が泣きゲーとして紹介されているかがわからなかった。
泣くまではいかないゲームだと思っていた。
早苗シナリオをプレイする前までは。

8割はただの馬鹿ゲーだ。
でもライターさんに文章力があるので、読みながら思わず笑ってしまう。
(最近のノベルゲームと比べてしまうと、この点だけでも評価に値すると思う)
もちろん、それだけなら泣きゲーには至らない。
このゲームは丁寧な文章に加え、声優さんの演技力によって支えられており、読む側は安心してプレイできるようになっている。
要するに総合的に、早苗シナリオは良評価と判断されている。

ここから先はプレイする前には絶対に読まないで欲しいのだが、
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2010年 09月 11日 *
30年後か40年後に死ぬとして、そのあと一体何が残る?
何も残らない。

今の生活にも何もない。
あるのは人との繋がりだけ。
信じる人、裏切られる人。
銀行の看板・元金融担当相の肩書きを信じる人、裏切られる人。
もし箱の中身を知っているなら裏切られることはなかった。
知っていたなら最初から信用しない。
箱の中に何が入っているかわからなかったから信じた。
信じるしかなかった。

箱の中身を知っているなら、その事実を公表すべきだ。
もちろんその行為には何の意味もないし、得することもない。
でも30年後か40年後に死ぬとして、そのあと一体何が残る?
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2010年 09月 06日 *
新型ipodの発表があったが、Appleはnanoを売る気がないのだろうか。
これならむしろ旧モデルの方を買いたくなる。
あのコンパクトさで動画撮影や動画再生もでき、あの価格なのはすごい。
今回のモデルチェンジで、nanoの客層をiPod touchに流したいAppleの思惑すら感じる。
要するにAppleストアでアプリケーションなどを購入してくれないとビジネスとしての旨みがないのだろう。
逆に言えば、いくら旧iPod nanoが売れたところで、Appleは儲からなかった。
もともと人気があるのはiPhoneやiPod touchだからいいけど、個人的にはマイナーな存在も残して欲しかった。
みんなが持っているものを持つのが何となく嫌だという人種も僅かながら存在するのだ。

何をしようとも思わない。
何をしても何も感じない。
少し心配になり、半年か1年ぶりくらいにテレビを見た。
実質ほとんど見ていないのに毎月CSの視聴料金が口座から引き落とされている。
(解約するのが面倒で放置されている。)
映画「デス・レース」を見た。
CS番組は少し見たいけどDVDレンタルする程でもない映画をみるのにちょうどいいかもしれない。
HDDレコーダーはあるけど、録画するのが面倒なので使っていない。
(何のために買ったんだ?)
途中から見たのでよくはわからないが、主人公がダメな人間で監獄みたいな場所に収監されている。
最後のシーンで主人公が生まれてきた子供のためにまともな生活をする決意をして終わる。
いかにもありがちな展開だったが、それでいい。
視聴者はそれ以上のことは望んでいない。

そのあと映画「消されたヘッドライン」を見た。
一度映画館で見たのだが、DVDでも借りた。
最後が気になった。
最後でどんでん返しが用意されていて、これはB級映画にはよくあることなのでいいのだが、綺麗に終わりすぎてやしないだろうか。
最後にどんでん返しがあったのに原稿が間に合ってしまうとか、それでいいのだろうか。
個人的には間に合わない方を見たかった。

時間があっても何をしようとも思わなくなり、相変わらずエロゲーでここに検索で訪れる人ばかりで複雑な心境になる。
はっきり言って僕はエロゲーのことなど詳しくないし、そもそもエロがわからない。
そういうものを喚起させる要素がどんなものなのか、考えてみたけどわからなかった。
それが、このどうしようもない生活の原因のような気がしてならない。
毎日決まった検索ワードで訪れる人が沢山いるのに、その人たちが一体何を求めているかがわからない。
エロいってどういうことですか?

会社ですごくきれいな人がいる。
上手く形容できないけど、テレビに出てくる芸能人みたいじゃなく、ハリウッド映画に出てくる女優に近い。
どうしてそんな人がいるのか理解できなくて少しイライラしていた。
でもよく考えてみると、そういう型に当てはめて考えているのは自分なんだ。
きれいなのにどうしてこんな所にいるんだとか、きれいなのにどうしてそんな性格なんだとか、自分勝手な枠を勝手に作っていた。
やはり個性は尊重するべきだ。
今までのことを謝りたいけど、謝られた方は意味がわからないだろう。
冷たく接していたので通じる可能性もあるけど。

今日も何もせずに終わった。
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2010年 09月 04日 *
どうせ誰も読んでないだろうから書こう。
トイストーリー3のある一部分について、おかしいと指摘する文章をよく見かける。
特に、おもちゃが最初のクラスに投入されて乱暴に扱われたことにより、リーダーに配置換えを訴えるくだりについて。
あのシーンを否定的に捉える人がけっこういる。
じゃ、あのおもちゃ達はずっと乱暴され続ければいいのか?
見方は人それぞれだけど、あのシーンはおそらく社会風刺で、観客が「現実社会と似ているなあ」と笑ってくれることを求めるシーンだと思う。
日本で言えば長時間拘束、肉体労働で低賃金の仕事を外国人に頼っていて、彼らに対して好き嫌いの感情を抱くのは勝手だが、彼らなしでは社会が成り立たなくなっているのが現実だ。

また、これはディズニー映画なので、やはりハッピーエンドで終わらなければならないなどの王道進行でなければならない事情がある。
逆に言えば、その堅い王道進行からどれだけ逸脱できるかが製作者側の腕の見せ所である。
なので、規定路線から外れたストーリー展開を求められても困るし、そこから脱却できないからといって批判される理由にはならない。

たとえばゴールデンタイムにTV放映されるアクション映画のストーリーなんて2の次で良い。
家族が見て一緒に楽しむのだから、馬鹿なくらいがちょうどいいのだ。
製作者は馬鹿な映画しか作れないのではなく、売るために敢えて視聴者にレベルを落として作成している。
マニアックな映画を求めるなら、居間に設置されたTVではなく、自分の部屋に引きこもって好きな映画を一人で鑑賞するべきだ。

よく考えてみて欲しい。
映画では出会った男女がかなりの確率で最終的には両思いになったりする。
確かにこれは、現実の法則を見事にねじ曲げていると言える。
実際そんなに上手くいくわけないだろうと文句を言う人もいるかもしれないが、それには「いいじゃないか、映画なんだから」と言いたい。
映画なんだから。わかってるよ。
現実、いくら気になるからといって何の接点もない人に気軽に声をかけたって、不審がられるだけだ。
最悪、警察沙汰になるケースもあるかもしれない。
でも、いくらなんでも映画と現実の区別ぐらいはつくよ。

おもちゃ達の目的ははっきりしている。
元の家に戻りたいという気持ち。
だから苦労してでも目的のためにがんばっているのに。
それをクラス替えを懇願したことに対し「自分勝手」と批判するのはどうなんだろうと。
おもちゃは自分の幸せのために行動してはいけないのか?

好きっていうのは何なんだろうね。
考えるほどよくわからなくなる。

映画の中にその答えはあるのだろうか。
バック・トゥ・ザ・フューチャーの主人公はこう言っていた。
「恋愛は雷みたいなものだ」

映画を見て僕は恋愛がどんなものかを想像するけど、現実のそれとは微妙に違う。
好きな人のためだけに全て行動できればいいけど、実際そうはならない。
だからといってそれが好きを否定することにはならないと思う。
映画みたいに一直線に突っ走るのもいい。
でもそれはあくまで僕の想像であって、現実はそういうものではないと思う。
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The Original by Sun&Moon