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2017年 08月 19日 *
最近、昔の写真を見るのにはまっている。
写真をわざわざ無償でブログにアップしている人達がいるのは、本当にありがたい。

自分も昔の写真を持ってたらいいなと思ったものの、10年ちょっと前の写真しか持っていない。
それだとあまり今と変わってないから、あまり比較にならない気がする。

スカイツリーが建つ前の業平橋駅からの眺め
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確かに土地が余っているように見えるかもしれないけど、場所柄、特に魅力のある場所でもなかったように思う。
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2017年 08月 15日 *
音は鼓膜を震わせ神経細胞から情報が脳に伝わり、最終的に音として認識する。
仮に耳というインターフェースが無かったとしても、信号さえ脳に届けば音として認識される。
視覚に障害があったとしても、信号さえ脳に届けば映像として認識される。

無音なのに音を認識することは可能である。
物が無いのに物を見ることは可能である。
手足を自由に動かせるように、周囲のストレスだけで体に変調が及ぶように、形がなくとも認識が体に影響を与えるのは珍しいことではない。

記憶は一体どこから来るのか。
例えば本を読み、自分なりに咀嚼し理解を深め、実践できるようになるまでいくつかの過程を踏まなければならないが、最終的な段階を「定着後の記憶」と呼ぶことにする。
それが脳の中ではただの情報で、他人とやり取りできるものであるなら、その定着後の記憶は「誰のものか」ということが曖昧になってくる。

例えば同じ映画であっても、それを見た記憶は人それぞれ違う。
定着後の記憶が外からやって来るのか、それとも自分で作り出したものなのか、ひとまず置いておくとして、それを感じたのは自分自身か? と言われると、少し違う。

将来、定着後の記憶を人と交換することが可能になり、それがビジネスになる日が訪れたとしよう。
海外旅行の記憶を買えば、わざわざ休みを取って海外旅行に行く必要はなくなる。
一瞬で海外旅行に行った記憶が手に入るのだから。
しかしここで、一体誰が海外旅行に行った記憶かが問題になってくる。

わざわざ映画館に行ってお金を払わなくても、2時間消費しなくても、記憶を買えばそれで済む。
しかし誰が見た記憶かによって印象が180度変わるということが起こり得る。

こうなると、映画の完成度というより、その記憶の値段・価値は、誰が映画を見たかによって変わってくる。

それまで能力やスキルに価値が与えられてきた。
だが、感性というものにも新たに価値が加わるようになる。
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2017年 07月 20日 *
確かドラえもんの道具に歌手とか学者などの記憶のカートリッジを装着する話があった。
SF映画トータル・リコールにも外部から記憶を注入する描写がある。
だがこれらのよくある話とは違い、入ってくる記憶はこちらでコントロール出来ない。
まあ現実世界でも思い通りに出来ることはもともと少ないが。
とにかくそれは、こちらが望もうが望むまいが、基本的に向こうからやって来る。
そこには、世界がそこにあるという実感というか、世界観が含まれている。

かつては東京や郊外にだって、世界観というか活気というか、そういうものを感じることが出来ていた。
これは僕の個人的な問題かもしれない。
だが、そこにあったものがマンションや駐車場やコンビニに置き換わることで、確実に世界観は損なわれてしまう。
どこに行っても同じ景色なら、どこに行ったって同じなのだから。
一方、異世界には最近自分が現実世界で感じ取れなかった世界観を確かに感じ取ることが出来る。

昔、日本には城が存在した。
天守閣から街の様子を一望することが出来た。

今この世界のリアルとは何なのだろう。
ニュースで取り上げられる殺人事件や戦争や交通事故のことだろうか。
負のニュースだけでなく、逆に、多くの人を幸せにするような出来事もあったのかもしれない。
少なくとも10年~20年前くらいまでは世界の存在を自覚出来ていた気がするが、今ではそうした感覚は希薄になってしまった。
この世界で起こっていることがよくわからない。
時代が変わってしまったのか、自分が変わってしまったのか。
遠くに行けばわかるのだろうか。
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2017年 07月 19日 *
ネットが普及するようになって、多くの人がつぶやくようになり、きっと誰かが同じことを書いたりしてるんだろうなという気持ちが自分の書く行為を思いとどまらせている。
自分の興味の対象にしたって、同じ興味を持つ人が既に書いているのだ。

記憶のことはどうだろう。
0.1%くらいの人が同じことを思っているかもしれない。
だとすると日本に10万人くらいは存在することになる。
結構沢山いるね。

記憶が入ってくるという感覚。
今まで出来なかったことが出来るようになることは日常生活において割とよくあることだ。
その過程の中では試行錯誤の段階があって、慣れてくると意識せずとも自然と身体が動くようになる。
知識についても同じことが言える。
最初はただ暗記していたものが、やがて生きた知識として活用できるようになっていく。

ただ何にせよ、そうなるまでにはそれなりの時間がかかる。
当たり前の事だ。

なので、次の道を曲がってそうしたら通りに出るから2番目の交差点を右に曲がればあの場所に出て…
みたいな記憶が一瞬で入って来たりしたら、少なくとも自分は戸惑う。
一体その記憶はどこから来たのかと。

異世界みたいなものが本当にあるのではないかと考えることもある。
何かをきっかけに向こうの世界とリンクし覗き見ているのではないだろうか。
また、この世界には秘密みたいなものが存在し、死んだあとで「何だ、そういうことだったのか」と理解する日が来るかもしれないと。
そんな風に思うこともある。

世界を認識すればその世界は存在する。
普通に考えれば逆で、世界があるから僕たちは世界を認識するに至る。
物理法則が存在するから僕たちはそれを認識する。
しかしそれよりもっと上位の概念が存在するのかもしれない。

無制限のストレージサービスのほとんどが撤退していることからもわかるように、記憶媒体は有限である。
にもかかわらず、何年もかけて習得するような記憶や知識が一瞬で入ってくることなど起こり得るのだろうか。
もしあるとすると、どのような仕組みで実現できているのだろうか。

記憶装置が高価な時代、FM音源のようにメモリが小さくてもパラメータを変えることで様々な音色を奏でる技術が存在した。
既にある記憶が脳の中でパラメータを変えることにより別の意味に変化する。
それは例えばパラメータを一つ変えるだけで、アニメのDVDが全く別の映画のDVDになるようなもので、本来ならあり得ないことだ。
万華鏡のように回せば異なる絵柄が出るというだけなら可能だが、チンパンジーがシェイクスピアの戯曲を書けるかとなると話は変わってくる。
そんなことが実現できるならば、これまで信じていた記憶媒体の有限性は全く否定されることになる。

この現象は一体何なのだろう。
ネットがこれだけ普及したのだから、同じようなことを考えている人がどこかにきっといるはずだ。
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2017年 06月 04日 *
3期キター
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2017年 05月 16日 *
たまにはバイク乗りっぽいことをしてみようと思い、とある道の駅に行ってみた。

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そこはライダー達の間ではそこそこ有名な所らしく、平日昼間だというのにバイクが沢山停まっていた。
なにこれ、ちょっと間に入りづらい雰囲気…。
自分が考え過ぎなだけかもしれないが、スクーターで来なくて本当によかった。
もし50ccの原付だったら嘲笑の的にされていたかもしれないし、かといって大型バイクで来たらじろじろ見られるだろうし。

外見を気にするといっても気にするポイントは人それぞれだ。
自分はフルカウルというだけで「何がんばっちゃってるの」と思われそうで買うのを躊躇ってしまう。
それと自分が主に走るのは誰も走っていない道で、そういう未舗装道路をフルカウルで走るのはどうなんだろうと。
今になって思うと、そうした道は、原付の方が気が楽だ。
足つきはいいし軽いので転倒の危険を抑えることができる。
車体が小さいので変な威圧感もないし周囲の環境に溶け込みやすい。
林道はそこまでスピードは出せないので原付でも不満を感じない、というか小回りが効く分、かえって走りやすいとさえ思う。
ただ目的地までの移動はやっぱりバイクの方が楽なんだよなぁ。

でも楽なのと楽しいは別だと思う。
なぜバイクや自転車が楽しいのか。
それは、車のように必ずしも周りの流れに合わせる必要がないからではないだろうか。
下道の車の流れに乗るという目的なら250ccあれば十分、いやジクサーでも十分だ。
しかし常に70Km/h前後で流れている道路を周囲に合わせて走ったところで、何ていうか走らされている感じがする。
ただ白線の枠に従ってハンドルとアクセルを調節しているだけで、乗り物を操っている感覚がないというか。
ジクサーは実用性からすれば文句の付けようがない。
原付での不満だった点はほぼ解消されている。
でも原付は原付で良かった所があったな、なんてことを考えてしまう。
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2017年 05月 15日 *
電車は便利だ。
ぼーっとしているだけで目的地に着く。
車やバイクを運転するよりよっぽど楽だし速い。
でも厄介なのが乗り換えや乗り越しがあることだ。

最近千葉駅の構内が新しくなった。
天井から吊り下げられている案内標識も液晶になった。
以前はLEDだった。
もっと昔はパタパタと切り替わるやつ(反転フラップ式)だった。
一番困ったのは総武快速(横須賀)線で東京方面に向かう列車なのか下り方面に向かう列車なのかわからなかったことだ。
今でこそ(東京方面)と追記されるようになったが、当時はそのようなやさしさは無かった。
久里浜とだけ表示されても、最初は千葉の海に行く列車だと勘違いしていた。
実際は神奈川方面の海に向かう列車なのだった。
(更に言えば勤労千葉で定期的にストが実施され列車が止められることがあった。
自分達のことを勤労と言い切る割には、賃上げ交渉のために仕事を放り出すあたり、何か矛盾を感じなくもないが…)
総武快速は3番~10番までのどのホームも発着に使うという、実にフリーダムな動きをするのも問題をややこしくしている原因の一つである。

悲しいことに自分はよく降りなければならない駅をそのまま乗り過ごしてしまう。
寝ている訳でもなく、気づいたら知らない駅まで来ている自分がいる。

最近知ったのだが、京葉線の各駅停車の海浜幕張行きは、終点の海浜幕張駅から蘇我方面に行く場合、わざわざ階段を降りて別のホームに向かう必要がある。
間違えて降りたホームの正面に来た東京方面の電車に乗ってしまった時の悲しさといったら。
本当に自分の無力さが情けなくなる。

それと前から疑問に思っていたことがある。
Suicaに入金することをチャージすると言うが、そもそもこれは英語として正しいのだろうか。
更に乗客が「大丈夫? チャージある?」と言っているのをよく耳にする。
話の前後関係から察するに、Suicaの残高はあるか? と相手に尋ねているらしい。
百歩譲って「入金する」ことを「チャージする」ことと認めたとしよう。
だとしても、「残高」のことを「チャージ」というのは生理的に受け入れられない。
基本的に人の言っていることがよくわからない。
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2017年 05月 07日 *
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今日もバイクで海岸の方に行ってきた。
連休中だったけど道はそれ程混んでいなかった。
ただ観光地(?)のようなスポットはいつもと違い、それなりに人が集まっていた。
そろそろ慣らし運転が終わるので少しだけエンジンを回してみた。
ジクサーは5000回転で約70Km/hに到達する。
それでも道路の段差はタイヤやサスが吸収してくれるので特に不快感はない。

MTの操作にはまだ慣れない。
たまにクラッチを切り忘れた状態で1速に入れてしまって、エンストすることがある。
無意識にシフトチェンジできるようにならなければ。
交差点で5速で再発進しエンストしてしまうような事態はできれば避けたい。

手は相変わらず怪我したかのような違和感はあるけど、当初よりもだいぶマシになってきた。
股関節にストレッチをした後のような疲労感を少し感じる。
おそらく手にかかる負荷を軽減するために無意識のうちにタンクを股で挟んでふんばっているのだと思う。
どのような乗り方が一番楽なのかは、体が試行錯誤して徐々に定まっていくだろう。
体に疲労感は確かにあるが、悪いものではない。
バイクとは関係のない、生活の中の精神的な疲労の方がよっぽど不快だ。
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2017年 04月 25日 *
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ポジションがきつい…
今までのスクーターが楽過ぎたというのもある。
尻は初日は痛かったけど、2日目以降は体が慣れたのか、全然痛くなくなった。
それと手のひらが痛い。
怪我してるんじゃないかっていうくらい痛む。
特にクラッチを握る左手…
これには体が慣れるまで1ヶ月以上かかりそう。
今までずっと楽してきたから仕方ないね。
これは一種の通過儀礼のようなもので、この痛みを感じなくなれば、きっと今以上に走りが楽になるはず。

時間が無いなと思う。
音楽とかアニメとかバイクとか自転車とか登山とか、面白いのはわかる。
それぞれ突き詰めれば十年、二十年と遊べそうなコンテンツだと思う。
でも寿命があと何年かを計算すると、全てをやり尽くすことは出来そうにない。
はいこれやって、はいこれ見て、まるでツアー旅行みたいな忙しさで、余裕が足りないなと。

春アニメはどれも良さそうで、間違いなく豊作だと思う。
自分としては季節ごとに1つ視聴できるものがあれば、3ヶ月乗り越えられる気がして少し気が楽になる。
それが一度に何作もとなると、リアルタイム視聴できずに通り過ぎてしまう作品が出そうで、それが少し残念かな。
にしてもこんなに頑張りすぎて大丈夫なのかと心配になる。
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2017年 04月 01日 *
去年アドレス110で谷川岳まで走ってみて、小排気量スクーターであっても長距離走行は不可能ではないことがわかった。

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実際に画像にしてみると長い(汗)
こいつ暑さで頭がおかしくなったんじゃないか? って心配になるくらい、ひたすら長い距離を走っている。
一体何回信号にひっかかり、ストップ&ゴーを繰り返したのか。
確か渋川を過ぎたあたりから運転がしんどくなり、着いた時はあまり登山を楽しむ気分ではなかった。

この疲労の一番の原因は運転時間だ。
目的地までの距離は長く運転時間も長いことは事前にわかっていた。
だから余計に、ここで15分休憩するよりこのまま進めば目的地に15分早く着く、という気持ちが強くなり、結局ほどんど途中で休憩できなかった。
時間にすると7時間を過ぎたあたりだろうか。
とにかく1日のうちで運転を楽しめる時間には限度があるということがわかった。

この疲労を克服するのに有効なのは高速道路を使うという事である。
ただしアドレス110は高速に乗れないので125cc以上の二輪車に乗る必要がある。
そこで乗り換えも選択肢の一つとして考えるようになった。

ここでアドレス110の長所と短所に触れてみたい。
長所は、
原付二種の中では突出した価格の安さ。
それでいて、走る・止まる等の基本的な動作は全く問題なくできる。
下道の車の流れであれば十分乗れる。(上り坂は少しきつい)
ハンドルや体を左右に振っても車体がふらつきにくく、直進安定性が高いにもかかわらず、ハンドル操作は軽い。
燃費がいい。
オイル交換時の必要量も少なく維持費も安い。
車重が軽いので転倒しづらい。
50cc原付のようにハンドルが振動しない。

反対に短所は、
タイヤが滑りやすい。
後輪ブレーキが簡単にロックする。
急ブレーキは無理なのでスピードに余裕を持って運転するしかない。
(タイヤが減らない点は経済性においてはプラスに働いている)
マフラーの音が「これノーマルか?」と疑いたくなる程うるさい。
アクセルを戻した時はデカスクみたいにブゥーンという音がするし、少しスピードを出しただけでも大きな音がする。
そこまでエンジンに負荷をかけてるつもりはないのに大袈裟過ぎるだろ、と突っ込みたくなる。
最近街中でアドレス110を見かけることが多くなり、マフラーを変えて更に音を大きくしている人もけっこういたりして。
見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
あと地面の段差の突き上げがけっこうきつい。
もちろん同じ所を自転車で通るよりもショックは受けないが、かといって4輪車で通るよりもショックは大きい。
というか、アドレス110に乗ったあとならどんな4輪に乗っても快適過ぎて笑いが出てしまうだろう。
突き上げの原因の一つは硬いタイヤであり、もう一つの原因はサスペンションにある。
ただ仮に10万円上乗せしてタイヤとサスをいいものに変えたところで、費用対効果の面においてはそこまで美味しくはないので、低価格と燃費の良さをアピールした方がいいというスズキの戦略なのだろう。
文句があるならホンダのリードとかヤマハのシグナスにすればいい。
それに突き上げの不快さは、スクーターの構造による部分も大きい。
メットインや足元に物を置ける等の積載性はスクーターの良い部分であり、スクーターの形状そのものは、これはこれで一つの完成形だと言える。
ただほとんどの荷重が座面にかかり、かつ車体の重心も椅子の下にあり、段差を乗り越えた時のショックは手足に分散しづらく、首や頭に直接衝撃が来る。
大袈裟に言えば、段差を乗り越える度にサッカーのヘディングをした時のような衝撃を受ける。
短距離走行であれば中腰姿勢をとって回避できるが、知らない道の走行や長距離走行では回避することが段々難しくなってくる。
これはスクーターの構造的な問題であり、タイヤやサスにお金をかけた所でショックが気持ち緩和されるだけで、完全に解消される訳ではない。

とまあ欠点もあるものの、アドレス110は総合的に言えば、現行原付二種の中で最も安価な部類に入る車種でありながら、他と比べても遜色ない走りをすると思う。
ただし、
高速道路に乗れない。
音がうるさい。
段差の衝撃がきつい。
これらに我慢できない人は他の車種を選択した方がいいかもしれない。
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The Original by Sun&Moon