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彼の失踪
2010年 04月 04日 *
あれから10年近い月日が経つ。
僕は未だに彼のことを思い出す。
あの時のことが忘れられないのだろうか。
それとも、忘れてはならないのだろうか。
これはそういう個人的な問題のために書く。
最初に断っておくが、この話は他の人が読んでもつまらないと思う。

それはあの日から始まった。
彼は大企業に勤めるサラリーマンだった。
彼には嫌な上司がいた。
仕事に関して嫌味を言うのは気にならなかったが、日頃から彼の出生や人格を否定する発言をするのが気に入らなかった。
「お前は親に何不自由なく育ててもらったのに、どうしてそんなことも出来ないんだ」
確かに親に不自由なく育ててもらったかもしれないが、そんな言い方をしなくたっていいだろう。
その日も上司は会議で彼の報告書を一瞥し、真正面の席から言った。
「お前は全然駄目だ」
彼は一生懸命、出来る限りのことをやっていた。
その結果が認められないということは、彼にとって自分を否定されたのと同じだった。
彼は今まで積み重なってきたものが爆発し、とうとうキレてしまった。

そしてものすごい勢いでスーツを脱ぎだした。
本来なら社員証やIDカードをテーブルに叩きつけて退席する場面だが、彼にとってはスーツ=制服という概念があった。
だから「こんな会社辞めてやる」と意思表示するため、彼はスーツを脱ぎはじめた。
1分足らずの間に彼は上に白いランニングシャツと下はトランクス姿で、会社から飛び出した。

通常ではあり得ない格好だったため、通報されれば捕まってもおかしくはない。
だが外では激しい雨が降っていたのが幸いした。
通行人は傘をさすことに精一杯で、誰も彼のことなど気に留めなかった。

雨を受けている感覚や雨粒の冷たさは感じなかった。
それくらい感覚は麻痺していた。

途中で中年のおばさんに呼び止められた。
「ねえぼく、どうしたの?」とでも言いたげに彼に近寄ってきた。
彼女は彼に傘を差し出そうとしたが、彼はそれを断った。
彼女は一本しか傘を持っておらず、彼に傘を渡せば今度は彼女の方が濡れてしまうからだ。

会社から鞄を持ってこなかったことを今更ながら後悔した。
所持金は1銭もない。
それどころか財布も免許証も携帯電話もない。
彼は文字通り、1枚のシャツとトランクス以外何も持っていなかった。
さっき昼食をとったばかりだから、飢えて死ぬとしても何日か先のことだろう。
そんな冷静で無慈悲な計算力はまだ残されていた。
とにかく1日中でも歩いて、この状況を何とかしなければならない。
とはいえ、一体どこに行けばいいのか。
ずっと考えても彼が思い浮かぶ場所は一箇所しかなかった。
だが徒歩ではそこまで行ったことがなく、道がわからなかったため、彼は線路沿いを移動した。
この方法なら確実に辿り着けるが、道の途中で何回も駅を通り過ぎなければならなかった。
駅前は大抵スーパーが立ち並び人通りも多いので、通り過ぎるのが恥ずかしかった。

辺りが暗くなりはじめた夕方過ぎ頃に、ようやく目的地に着いた。
そこは昔付き合っていた元彼女の住むマンションだった。
今では彼女は職場の10歳以上年上の既婚者と付き合っていて、彼のポジションは相当上らしい。

彼女はいるだろうか。
おそるおそる1階のエントランスでインターホンを押す。
「はい?」
忘れもしない、彼女の声がした。
「急にごめん。俺だけど…。助けて欲しくて」
まさか別れてすぐ音信不通になった男が突然、自分の部屋の前にやって来て懇願してくるとは思わなかっただろう。
でも、彼にとって頼みの綱は彼女だけだった。
彼女はどうしていいかわからず、部屋のドアを開けてしまったのかもしれない。

彼女は簡単な食事を作ってくれた。
彼はそれを食べ終えると、そのまま彼女のベッドに横たわった。

それからようやく普通の感覚が戻ってきた。
そうだ、彼女の匂い、こんなだったっけ。
辺りを見回すと女の子らしい、綺麗な部屋だった。
立地条件や間取りを考えると少なくとも家賃は数十万円はしそうだった。
自分にとってはあり得ない金額だが、彼女にとってはそれが当たり前のようだった。
以前彼女とは付き合っていたものの、既に遠い存在のような気がした。

「そういえば、彼氏は今日来ないの?」
「来ない。来る時は必ず連絡くれるから」
彼氏が来ないことがわかり、少し安堵する。
なるべく彼氏と遭遇することは避けたかった。
もし会おうものならその場で殺されるような気がした。

じっと横になりながらあれこれ思案していると眠くなってきた。
このまましばらく寝てしまおう。

突然の出来事に目が覚めた。
ドアに鍵をガチャガチャと差し込む音がして、それからドアがギイと開く音がする。
「ただいまー」
男性的で低い声がはっきり聞き取れた。
彼は彼女の部屋の合鍵を持っていたのか。
…いや、そんなことはどうでもいい。
バレたらまずい。
というか、既にバレてるんじゃないか?
そうだ、玄関に靴が置きっぱなしだったじゃないか。
迂闊だった、あれで確実にバレている。
いや待て、今日は靴を履かずにここまで来たんだった。
それならまだ今の時点ではバレてないのか?
でも彼女は嘘をつけない性格だから、途中でバレてしまうかもしれない。
彼は、彼女が友達が来てるなどと言って上手く誤魔化してくれことを祈った。
いつ彼女の寝室の扉が開けられるかと冷や冷やしながら、息を殺し耳を澄ましていた。

彼は常に緊張しながら辺りの音に集中していた。
気づくと朝になっていた。
すぐ隣で彼女が寝ていた。
「ちょっと起きて。あれから彼氏はどうしたの?」

どうやら彼氏は既に会社に向かったらしい。
仕事熱心な彼氏だ。
それに比べて俺ときたら…昨日から何やってるんだろう。

床に男性用の洋服が畳まれて置いてあった。
彼は彼女とまだ付き合っていた頃のことを思い出した。
あの頃とさほど変わっていない。
彼女の広くて豪華でおしゃれな部屋とセックスしていないことを除いては。
でもそれがけっこう重要なことのような気がする。

「服、用意してくれてありがとう。あのさ、まだあれ持ってる?」
彼は自分の部屋の鍵をまだ持っているかを彼女に尋ねた。
「あるけど」
「それ返してもらってもいいかな」
しばらく考え込む仕草をして彼女は言った。
「え、…なんで?」
その言葉は意外だった。
まず第一にその鍵はもともと自分のものである。
第二にその鍵を一番欲しているのは世界中どこを捜しても自分であるのは間違いない。
なんでも何もない。
それがなければ今、自分の部屋に入ることができないのだ。
彼は今までの事情を説明し、ようやく彼女から鍵を取り戻すことができた。

彼は自分の部屋まで徒歩で移動することにした。
今度は更に長距離を歩かねばならなかった。
ただ歩いている間も、さっきの彼女の態度が理解できなかった。
付き合いはもうとっくに終わってるのに、一体何考えてるんだ。

自分の部屋に着いたのは夜中だった.
だが彼にとってはむしろ都合がよかった。
日中であれば会社の誰かが様子を見に来るかもしれない。
彼は部屋の中を物色した。
部屋には彼がメインで使用している通帳はなかった。
いつも会社の鞄に入れたままだったからだ。
ただ唯一、以前偶然作った口座だけが残されていた。

朝になる前にこの部屋を出なければならない。
この部屋は会社と提携している物件で、家賃も給料から毎月天引きされて支払われている。
会社を辞めたということは、この部屋も早々に引き払わなければならないことを意味していた。
彼は生活に本当に必要なものだけを選び、部屋を後にした。
中が散らかったままだったのが心残りだったが、きっと親切な社員が片付けてくれるだろう。
まあこんな人間が現れることは完全に想定外だとは思うが。

良心を痛めている状況でもなかった。
持っている口座の残高は50万円ほどしかなかった。
このまま数ヶ月生きられるとしても、残高がゼロになった時、おそらく自分の生命は終わる。
彼はそれだけのことをしてしまった。
でも、ある程度覚悟はできていた。
そういう人生もあるさ。
その部分に関しては、意外とあっさり納得できていた。

それから彼は何をするわけでもなく淡々と日々を過ごした。
初めての一切束縛のない生活を楽しんですらいた。
ただ残された時間は限られていた。
あと1日というほど切羽詰ってはいないが、何年も暮らせるというほど裕福でもない。
彼は今後何とか一人で生活できないかを一応模索し始めた。

数ヶ月が経過し、残された時間も僅かになっていた。
彼はそれまで調べたもののうち、どれかに運命を預けなければならなかった。
これに賭けてみるか。
ここまで来ると絶望も希望もなかった。
運のみが自分の命を左右する。
だが何もない彼にとっては、それが相応しい最後のような気がした。

更に1ヶ月が経った。
信じられないことに、彼の通帳の数字は増えていた。
そして、それからもずっと彼の預金はなぜか増え続けた。
まるでマジックのようだった。

しばらくすると彼は、彼女が住んでいたような高級マンションに住みはじめた。
それは彼の能力というより、運の要素が大きい。
彼が偶然それを発見したことに加え、周りの状況にも助けられた。
それらを総合すると、運と言う他なかった。
例えば偽名の銀行口座を持つことは、今ではかなりの犯罪行為と言える。
それに法律も強化されているので、実現が難しい。
架空の銀行口座など、詐欺やマネーロンダリング等に使用される可能性が高いので、規制が強化されるのは当然だった。
ただ結果として、彼は別人になることに成功し、それに加え、サラリーマン時代の何倍もの収入を得るようになった。
一応彼の名誉のために言っておくと、彼は詐欺を行ったのではない。
彼の性格からして、そうするくらいなら潔く死を選ぶタイプの人間だ。
彼は当時、自分の身分を証明するものを何も所持していなかったため、生き延びるために仕方なくそうした方法を取ったと思われる。
もちろん彼がルール違反をしたことに関して、僕は彼を擁護するつもりはない。
でも、この世で成功者と言われる人の中で完全に白と言い切れる割合はどれ位かを考えると、彼だけを責める気にもなれない。

それから数年間、彼はひたすら一人で生き続けるが、そんな生活にも終止符がうたれた。
一人の生活に大分慣れた挙げ句、気が変になりそうになったのだ。
よく会社に入りたての新入社員が大金持ちになって悠々自適な生活がしたいと公言するが、そのあと一体どうするのかと思う。
もし大金を手に入れたところで、何も変わらない。
彼だけに当てはまるのかもしれないが、とにかく彼の生活は何も変わらなかった。

彼に昔のことを訊ねても、言葉を濁すばかりであまり語りたがらない。
「彼女のこと、まだ好き?」
そう聞いても曖昧な返事が返ってくるだけだ。
僕は今ある材料だけで彼の行動を分析してみた。
すると、彼はこの数年間、彼女の幻影を追いかけ、彼氏の壁を乗り越えようとしていたのではないかという仮説が思い浮かんだ。
きっとそれはある意味では正しく、ある意味では違っている。
少なくとも収入の面においては彼氏の経済的な力を目標としていたに違いない。
そしてそれを乗り越えた瞬間、いくらかの達成感を得ただろう。
しかし数年間の月日は、同時に彼の限界をも思い知らせることになった。
どんなに努力を重ねたとしても、彼氏に勝てない面がある。
それは生命力のようなものだった。
彼氏が苦しみをバネにして努力を続ける一方で、彼は絶望し何もせず1日を過ごしてしまう。
例えば二人が別々の無人島に漂着したら、最後まで行き続けるのが彼氏で、一番最初に死ぬのが彼。
彼は衣食住やネットなどのインフラに恵まれ、その他の社会的な情勢にも恵まれ、理想的な状況の中でしか力を発揮できない。

彼はマンションを出た後、貧乏大学生が借りるような安アパートに住み、別人のまま会社に就職し働いている。
彼にとってはその暮らしの方がしっくり来るのだろう。

つらいことから逃げてはいけない。
そう言うけれど、もうどうしようもなくなったら逃げてもいいような気がする。
もちろん何かを失うだろうけど、それは仕方のないことだ。
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by nochoice1 | 2010-04-04 20:12 | フィクション | Comments(0) *
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