悲しかったり寂しかったりすると、それまで構築してた下らない論理は吹き飛んでしまい、言葉が出てこない。
映画の中で必ずしも人が死ぬ必要はない。
それじゃ何も起きないからといって、死なせなければならない時、そこには理由がなければならない。
死の描写があるなら、それに至る必然性も同時に描かなければならない。
映画にしても小説にしても、多くのシーンは必然性の描写に割かれているといってもいい。
そうしなければ読み手に伝わらないから。
それがなければ相手に伝わらない。
それがなければいくら主張しても、もともと感覚がリンクしてる人以外には伝わらない。
必然性を描ける人には、たくましさみたいなものがある。
できない人は、自分の心の奥底を切り取ったものを眺めながら、ただ「暗く、冷たい」と形容するばかりで、その先には一体何があるのか。
仮にいい映画を見たとして、そのあと何が残るのかと問われてもわからないけど。
きっと、大多数が満足する条件を備えたマイホームを買ったって満足できない。
自ら死んでいった人が、生前、決して不幸には見えなかったように。
本人が幸せかなんて、所詮他人にはわからない。
人のために何かをしているなんて、勘違いもいいところだ。
人の歌った歌。人の言った言葉。
そこには何かがあり、何かが無い。