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知っているか知らないか
2010年 08月 16日 *
どうしてこんな僻地の診療所で働いているのかは忘れた。
最初は理由はあったのだろうが、理由はなくても日々は日常となり積み重ねられていく。

当初、先輩医師は自分に色々教えてくれたが、すぐにいなくなってしまった。
当たり前だ。
他所の待遇と比べてしまえば、ここで得るものなど何もないから。
それでもこの仕事に憧れる人もいる。
患者から直接「ありがとう」と言われる職業だと。
でも所詮、ありがとうはありがとうで終わる。
こんなやりがいのない小さな診療所で働くのは、おそらくまともな人間の考えることではない。

ここに来る前に紆余曲折はあった。
それを経て、どうしても自分がこんな所で働くことになったのか。
どう考えても賢明な選択には思えない。
でもたまに、これはこれで自分に向いているかもしれない、と思うことがある。
それはおそらく自分という人間はまともではないからだ。

こんな小さな診療所でも患者は沢山やって来る。
症状は重いものから軽いものまで様々だ。
共通して言えるのは、患者は白衣を身にまとった人間が何でも治療できると思い込んでいる点。
だが実際にはそうはいかない。
それは医療技術の限界による場合もあれば、自分の力不足が原因の場合もある。
また、"自称患者"が医療の範囲外の問題を、持ち込んでくる場合もある。
救えるものなら全員救いたいが、そうはならないのが現実だ。

「先生、右手の具合がおかしいんです。なぜでしょう?」
理由など実際に診察してみないことにはわからない。
それなのに、ここに来る患者はみな、医者を超能力者か何かと勘違いしているようだ。
「ちょっと右手を診せてもらえますか?」
僕は患者の右手にそっと触れる。
患者の手を触りながら、「痛いところはありませんか?」と尋ねる。
「いえ特に痛くありません」
患者は即答した。
痛くないということは、どういった原因が考えられるだろう。
過去の事例を思い返してみる。

「あの先生?」
患者は怪訝な表情で僕に声をかけた。
理由はわかっていた。
僕がずっと長い間沈黙していたせいだ。
僕は考え込むと沈黙するクセがあり、よく患者からこうして声をかけられる。
でも僕は一番最良な方法で患者を治そうとして沈黙してしまうのであって、決してぼーっとしていた訳ではない。
患者にはその辺の事情をわかって欲しかったが、説明するのが面倒なのでいつものように何も言わなかった。

「右手がおかしくなったのはいつからですか?」
「昨日からです」
右手がおかしくなったのが最近であれば、直前の状況や出来事が原因である可能性が高い。
僕は患者にこう尋ねた。
「昨日から急におかしくなったということですか。おかしくなる直前に何かありませんでしたか?」
「いえ特にはありません」

僕はしばらく考える動作をすると、患者が口を開いた。
「強いて言えばあります…」
「それはどのような?」
「夢をみたんです。とても怖い夢」
「夢ですか。それはどんな夢だったか、憶えている範囲で結構ですから教えていただけませんか?」
「そうですね、とにかく怖かったんです。私は右手を傷つけられて、何度も棘の入った鞭で痛めつけられて、挙句の果てには切り落とされてしまいました」
「それで、そのあとどうなりましたか?」
「それから夢から覚めました。でも恐怖はずっと消えないまま残っていました。先生、本当に私の右手は何ともありませんか?」
「ええ。診たところ問題なさそうですね」

この患者は自分の右手を切り落とされる夢をみて、そのあと心配になってここに来たらしい。
これなら医学の知識などなくても解決する話だ。
夢で起きた出来事が現実に影響するはずがない。
たとえば、夢の中で自分が死んだら、現実の自分が死ぬのか?
夢の中で自分が犯罪を犯したら、現実の自分が逮捕されるのか?
あり得ないことだ。
確か、過去の医学書に夢が及ぼす人体への影響について書かれたものがあったが、詳細は忘れてしまった。
この患者はそこまで重度ではないから、参照するまでもないだろう。

僕はたとえ話をはじめた。
「こう考えてみてください。家の廊下に高価な壺が置いてあったとします。あなたは夢の中でその壺を割ってしまった。
あなたは夢から覚めたあと、心配になって廊下の壺を確認します。壺は割れていますか、それとも割れていませんか?」
患者は答えた。
「割れていませんね」
「そうでしょう。それと同じで、夢の中で右手が切り落とされてしまったとしても、現実のあなたには何の影響もありません。右手も無事付いているでしょう?」
「確かにそう言われてみればそうかもしれません」
患者はそれでも少し腑に落ちない様子だった。
だが、完全に理解してもらう必要はなかった。
右手に問題ないことを少しでも自覚させてやれば、やがて自分の感じていることが間違いであることに気づくだろう。

これではとんだ笑い話だ。
医学の知識など全く必要ないじゃないか。

僕はこれと似たことを思い出していた。
朝起きると、彼女が不機嫌になっていた。
人の心は気まぐれで急に不機嫌になったり、特に朝はそうだったりするが、それとは何か違っていた。
明らかに彼女を不快にさせる出来事があり、それが彼女を不機嫌にさせている。
でも昨日までは普段のやさしい彼女だった。
寝る直前まで彼女のそばにいたからそれは断言できた。

不機嫌な彼女と必死にコミュニケーションを試みることで、あることが判明した。
昨晩、彼女は嫌な夢をみたらしく、どうやらその夢の中で、僕は冷たい行動を取ったらしいのだ。
こんな理不尽な話があるだろうか。
僕がいくら彼女に冷たく接したとはいえ、それはあくまで夢の中の話で、現実の僕は何もしてはいない。
それなのにどうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。
通常の理屈で考えると、到底理解できる話ではない。
だが、彼女の立場になって考えると、全く理解できない訳でもなかった。
彼女は夢の中だろうと現実だろうと、僕の行為によって嫌な思いをしたのは事実で、その体験を消すことなど、誰にもできないのだ。

人は理屈ではわかっていても、自らが体験した方に比重を置く、ということか。
それも一理あるだろう。
だが彼女の行動をそれだけでは全てを説明しきれない。

毎日絶えず訪れる患者をみて思う。
彼らは病気のことを知らない。
中途半端に知っている面倒な患者もいるが、常識的にそれくらいは知っているだろうという実生活レベルの知識すら持っていない者も多い。
彼らは病気に対する知識がなければない程、病気のことを恐れる。
わからないから恐れ、嫌な想像をし、疑心暗鬼になる。
その結果、現実に起こらないようなことすらも疑ってしまう場合もある。
僕は彼らを決して笑うことはできない。
僕と彼らの違いは、知っているか知らないか、そのわずかな違いしかないのだ。

ここである仮説が導き出された。

彼女は僕のことを何一つ理解していなかった。

直感的にその仮説は正しい。
それに比べて自分はどうか。
僕も彼女のことを何一つ理解していなかった。

日本にこんな諺がある。
「好きこそものの上手なれ」
その一方でこんなのもある。
「下手の横好き」
これを拡大解釈するならば、相手を理解し、だからこそ人を好きになれる。
しかし、相手を全く理解できなくても、人を好きになる場合もある。
要するに、相手を理解できているかどうかは、好きになることとは関係がない。
好きな感情は独立して存在し得るということだ。

どうして僕が彼女のことを好きなのかはわからない。
理屈では説明できない。
会っている間冷たくされても、そんな時間すら好きの一部に含まれている。
その気持ちは過去形では言い表せない。
僕は彼女のことを好き「だった」のではなく、今でも好きだ。
彼女が僕のもとから去ってからもずっと。

僕はなぜか、いま小さな診療所に勤めている。
毎日人からありがとうと言われる。
得るものは何もない。
それでもここが自分のいるべき場所だと思うことがある。
窓の外には停滞した町の風景が見える。
君のいる所からは距離が遠く離れすぎてしまった。
もう二度と会うことはないだろう。
なのに、目を閉じるといつも君の姿が浮かんでくる。
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by nochoice1 | 2010-08-16 19:28 | フィクション | Comments(0) *
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The Original by Sun&Moon